先日、遠藤周作著の『悪霊の午後』という小説をTBSで昔(1983年に)『ザ・サスペンス』でドラマ化したものをやっていた。
小説家(鹿賀丈史)が秘書(古手川裕子)を雇う。
この秘書が、いわゆる悪魔で、理性で抑えていた欲望を解放するという力をもった女性という設定である。

 

 

 

言葉の通りになる

 

この女性が言ったことはその通りになる。
女性の周りの男たちは、その女性の言葉で、スリを犯すようになったり、自死したり、人生の歯車がおかしくなっていく。そして、崩壊していく。ざっと、こういうドラマであった。

 

なにか背筋が凍り付くように、番組を見入っていた。
自分は最近のオカルト映画を観てもあまり怖くない。たとえば、アメリカのステーヴィン・キングをいくつか観たが自分は恐くない。恐怖の質が違う感じだ。

 

これは、現実離れした悪魔の話なのだろうか。
現実の世界でよくあるマインドコントロールの事件やオウム真理教の事件を想起してしまった。

 

欲望と理性の対立

 

番組では、欲望と理性の対立が描かれていた。理性で抑えられていた潜在的な欲望が解放される、そういう図式である。
しかし、そう単純なものなのかな。

 

昔 大学の先輩に、感性─悟性─理性という認識の違いを教わった。感性が低い段階というわけではない。
感覚は、現実の反映である。現実をどう感じるかということ。

 

これが、感情と結びついて、言語化されたものが悟性と言う。
「道徳や科学」もその部類になるという。

 

科学はその時代における、ある段階の認識にしか過ぎず、真理そのものではない。
だから学説が後の時代にひっくりかえることもある。

 

道徳もそうであり、昔の道徳も今は通用しないものもある。
道徳も科学も絶対ではなく、相対的なものであり、それを越えた所に真実があるという理性的な認識があるというのだ。

 

しかし、なかなかそこまで人間は到達しない。
Twitterの世界では「道徳や科学」のテーマで対立している。
似たような道徳や科学をもつ人間たちが、集まって、その「絶対性」を主張している。

 

自分の信じている「道徳や科学」に疑いは微塵もない。
相交わるということはなく、賛美と全面否定があるのみだ。

 

近場に悪いスピーカー

 

高校の頃、かなり偉そうに言うクラスメートがいた。よく私の似顔絵を書き、醜いということばかり言っていた。近場でずっと否定されている言葉を聞かされると、そう思うようになる。

 

絶対的な二枚目などと自分に自信を持っている人間などそういない。
そういう控えめな感情につけこんで、責めてくる。
でも、そのクラスメートはたいした顔ではない。

 

たいした顔でもないのに、他人に対しては醜いだとか、言って価値を下げる人間は意外とたくさん居る。
そういう近場にそういう人物がずっといると、人生は台無しになる。

 

昔、自分が高校の同窓会の幹事をすることになりそのクラスメートに同窓会の案内の電話をした。
すると、「僕に同窓会の案内をするなんて、頭がおかしい。」と言ったのだ。

 

自分は同窓会に出たくないと言えば済む話である。
そういう相手を否定することしか言えない、非常識な答えしかできない人物でしかなかったと早く知るべきだった。

 

なまじっか自分が劣等感を持っていると、そういう人間につけこまれる。
相手を全面否定して、自分の自尊心を満たしているだけの人物だった。
人間は孤立している状況だと、近場のスピーカーの雑音の音量に心が惑わされて、それが真実だと思い込むのが悲しいところだ。

 

マンドコントロールする人間

 

マンドコントロールする人間に遭遇しなければ不幸に会うことも無い。
そうマインドコントロールの事件を見る度に思う人も多いのではなかろうか。
しかし、身近なところにそういう人物はいるものである。

 

ひっかかる人にも特徴があると思う。
極めて「道徳的」な人の方がマインドコントロールされやすいのだと思う。
先に述べた「悟性」にとらわれる人間の方が言葉で支配されやすいのだと思う。

 

多数の人間は、感性から、その言葉に疑問を持つ。
飯が食べられない、子どもが可愛そうなどの自然な感情から、その言葉の支配から離脱する。
言霊は、美しくも醜くもない。現実に適合しなければ、取り換えられるだけである。
だが、愚直に道徳的な人間は、その言葉の幻想からなかなか逃げられない。
その言葉に沿って生きることが、快ということではなく、その言葉からはずれることが地獄のような錯覚に陥っているからだ。

 

さて、マインドコントロールする側の人間であるが。
人間を子供のころから、自分のために動かすことにたけた人間なので、緻密に計算してやっているわけではない。
ただ自分の利益だけのために残酷に人を操作しても良いというために、理想の言葉を言う癖がついているので、話しているとついだまされるのだ。

 

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。
理想の言葉で全身を着飾っているのだけに、なかなかそう思えないが、ただ利己的な人間だった・・・現実はそういうことだったりする。

 

まとめ

 

狭い人間関係においては、強烈なマインドコントロールの言葉の支配から逃れるのはたいへん難しい。
ドラマでは、現実は彼女の言った言葉通りになる─予言─ということだが、周りの人間が彼女の言葉の奴隷となり、言葉通りに実践して環境を整えるだけの話だ。
また、そういう彼女のような人物は、情報収集には長けていて、その結果、こうしたらこうなるということがあらかじめわかるだけの話だ。
言葉が現実とはずれた場合、彼女も神秘性を失うので、そういうことはかなり下準備したりする。

 

マンドコントロールされた人間が解放されるには、マインドコントロールする人間から離れるのが第一。

 

新たな人間のつきあいで、標準的な言葉の新たな奴隷になるのではなく、自分が信じてきたこと自体も相対的な言葉として、何が自分の人生に潤いを与えるものかを考えることなのかなと思う。
自分もその過程にあるのかもしれない。
ひとつのドラマから、いろいろなことを想い起こしてしまった。

 

 

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